Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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本発表は、「主としてコ・メディカルスタッフに対する社会的ニーズに対応した教育の基盤となる研究プロジェクトの方向性」というテーマに沿って実施された。このテーマに沿う形で、今回の発表「メルロ=ポンティの身体論とケアとの接点」が行われた。本発表は、具体的なフィールドワーク(個別的現場の視察やニーズ調査)の実践段階に入る前に、そもそも社会(福祉領域)におけるどのようなニーズに対してコ・メディカルスタッフのどのような対応が可能でありかつ望まれるのかについてのある程度普遍性を持った「先行的・モデル的提案」を、基礎的・理念的なレベル[stage1]および実践的応用のレベル[stage2]の両面において私たち各自ががまず考え、その上で、それら構想を突き合わせコンセンサスとして共有することという「第一段階の課題」のうち、基礎的・理念的なレベル[stage1]の提示を担うものとして位置づけられる。
今回の発表においては、メルロ=ポンティの身体論のポイントを把握する上での事例として、切断された四肢を身体経験のなかで保持し続ける症例である「幻影肢」のメルロ=ポンティによるきわめて実践的で応用可能性の豊かな解釈を取り上げ、「身体図式」に定位したその解釈および実践の枠組み(とりわけ幻肢痛や重度運動障害・運動麻痺治療の)方法論が、1970年代イタリアのペルフェッティによる認知(神経学的)リハビリテーション運動療法を経由して、1990年代以降のメルザック(Melzack)のニューロマトリックス仮説・概念(1990)、さらには中枢神経系の可塑性変化(再構築)に注目するラマチャンドラン(Ramachandran)によるミラーボックス療法(1995)等へ一貫した流れとして受け継がれているという視点を中軸として提示した。
こうした身体論を出発点として吟味検討することをベースとして、保健・医療・福祉の全領域(パブリックサービス領域全般)を包括する根底的なニーズと実践を考察し価値評価する枠組みを構築していくことが可能になると思われる。また、上記基礎的・理念的なレベル[stage1]の次の段階として、英米分析哲学を経由・消化した先端的倫理学派との統合によるいっそうの精密化を目指すとともに、同僚の教員のみならず地域社会の住民を含む多様な人々との協働作業のネットワークを創り上げていきたいと考える。

(以下発表:ただし部分的に加筆修正している)

看護師のケアとの関わりとリハビリとの関わりについては、後ほど補足してもらおうと思うんですけど、この『知覚の現象学』はメルロ=ポンティの博士論文なんですね。メルロ=ポンティは1908年に生まれた、いってみれば、非常に昔の人です。このあいだ100歳まで生きて亡くなったレヴィ=ストロースという人が同じ世代(同年生まれ)で、その他サルトルとか輝けるフランスの世代ということで、現代思想の中でのある見方からすれば、三本の指に入るくらいの永遠の業績を残した人で、いろんな分野に渡ってはかりしれない影響力がある、そういう人です。今回、ほんの一部ということで、幻影肢、あるいは幻肢痛ですね。おおむねそれについての記述と解釈を取り上げます。『知覚の現象学』という主著の、日本語の最初の訳書でいうと第一巻の一部ではあるけれど、かなり大きく取り上げている典型的な議論、これは有名なんですけど、そこのところを取り上げるということです。著作が1945年に発表されているんですけど、ながらく幻肢痛というのは、そして現在においてもいわゆる「原因」というのははっきりとはわからないんです。それに対する有力な仮説や療法っていうのは、1990年代以降のメルザック(Melzack)の、ニューロンネットワーク、大脳皮質、脳幹、大脳辺縁系といった全体的なネットワークの自動運動的な機構を考慮に入れるニューロマトリックス仮説(1990)、また中枢神経系の可塑性変化(再構築)に注目するアメリカのUCSD、サンディエゴの神経科学研究所のヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(Vilayanur S. Ramachandran,)のミラーボックス療法(1995)といったもの、ラマチャンドランには『脳のなかの幽霊』っていう主著の訳書があるんですけどね、そういったところを探らないと幻肢痛はわからないっていうのが、数少ないまとまった仮説としてはあるっていうことなんですね。つまり、これらは比較的最近の話なんですね。またみなさんご存じのように、脳深部刺激療法(Deep Brain Stimulation、DBS)っていうことで、ジストニアとかこれまで非常に治療が難しかったものを、脳の深部の方に刺激を与えるということで、それがどのように科学的なメカニズムによってジストニアが改善するのかを、まだはっきりとは理論的にはわからないんですけど。とにかくそういった基底核神経群を含む大脳の、または辺縁系の方に対する介入ということで、かなり改善しているっていうことがわかってきているんです。端折って言いますけど、末梢的な刺激反応図式ではない、また中枢神経系への一方向的還元でもない、トータルな働きかけが必要だということを、メルロ=ポンティの読解によって初めてリハビリの分野でペルフェッティっていうイタリア人の学者が、あるいは実際の医師・療法家がやったというのは1970年代なんです。要するにメルロ=ポンティの身体図式っていう考え方による、今回取り上げる幻肢痛へのアプローチ、それからペルフェッティ。彼の試みからこの間すでに30年以上の時間が経っていて、この点ペルフェッティっていうのは驚くほど先進的だったということですね。そのペルフェッティからさらに20年くらい経って、ラマチャンドランとかの試みがあり、さらにそのほぼ同時期(1995頃)に創出され、それから10年くらいかけてかなり普及してきた脳深部刺激療法、これが一つの一本の糸として通じている。つまりメルロ=ポンティに言及する一つの方向性としてあると思うんですね。これが一つ考えられるところなんです。
じゃあ、そうした方向性というのはどのようなものなのかということを、レジュメを読み上げながら、簡単に、これでも圧倒的に簡略化しちゃっているので、ほとんど端折っているのですが。たとえば触れるものと触れられるものの可逆性とかの有名な議論、ほとんど端折っています。で、この可逆性というのをメルロ=ポンティは存在論自体の方へトータルに展開していって、それは最近の構造主義以後のデリダとかハイデガーの後期思想と相互に共鳴しているような、むしろそっちの方へ連接するということなんですね。そちらの方も当然のことながら端折っています。ではこの身体論というところを読みますが、メルロ=ポンティ自身が一番目指した根本的なところ、ここを読み上げます。網掛けになっているところがメルロ=ポンティ自身の言葉、そのまま訳しているところなので、多少ちょっと難しいかもしれないと思うんですけど。なお、本発表はあくまで「メルロ=ポンティをこれまでまったく読んでこなかった聞き手に対して可能な限り、圧倒的にわかりやすく話すこと」がその目的なので、とりあえずのベースとして、哲学者の鷲田清一氏によるメルロ=ポンティ哲学の一般向けの紹介本『メルロ=ポンティ―可逆性』(講談社 2003)の記述を参照しています。

「厳密に客観的方法によって得られる大上段にのしかかる普遍ではもはやなく、たえず他人によって自己を吟味し他人を吟味することによって手に入れる側面的普遍……原理的にいって他国や他の時代のひとびとにも接近可能になるような一個の<拡張された経験>を構成すること」
「自分自身の文化のうちに取り込まれていないために、それによってかえって他の文化とも疎通しあえるような、みずからの野生の領域を取り戻すこと」

こういったことを言っているんですね。まあ、今でこそ多元的な考え方ということで当たり前なんですけど、この執筆当時からそれ以降、メルロ=ポンティが政治的に、かなり過激だった時期があるんです。フランスの実質的な植民地であったアルジェリアにおける闘争(cf.1954-1962:アルジェリア戦争)は彼の後半生を時期的に覆っています。当然白人っていうのは、今でもそういった偏見っていうのはとくに中枢の方にまだあるわけなんですけど、有色人種というのは奴隷で当然っていうのが歴史においてずっと続いていたわけで、この当時のアルジェリアの人たちっていうのは、フランスの属国、そこでそういったところで虐げられて当然っていうのがむしろ主流だったわけですね。それをパリのインテリの中枢にいたメルロ=ポンティが先のように言っているっていうのは、かなり意味があるというのがわかると思います。それからとても有名なことなんですけど、『知覚の現象学』っていうのは、『星の王子さま』で有名なサン=テグジュペリの『戦う操縦士』っていう、サン=テグジュペリは自分も操縦士だったんで、その自伝的な小説なんですけど、その著作の次の言葉の引用で終わっているわけなんですよ。このことは一見非常に変わっているというか、これが『知覚の現象学』の最後の部分で引用されて終わっているので、これを読み上げてみます。

――きみの息子が炎に包まれていたら、きみはかれを救けだすことだろう……もし障害物があったら、肩で体当たりをするためにきみはきみの肩を売りとばすだろう。きみはきみの行為そのもののうちに宿っているのだ。それがきみなのだ……きみは自分を身代わりにする……きみというものの意味が、まばゆいほど現れてくるのだ。それはきみの義務であり、きみの憎しみであり、きみの愛であり、きみの誠実さであり、きみの発明なのだ……人間というのはさまざまな絆の結節点にすぎない、人間にとっては絆だけが重要なのだ。
というようなことが書かれているのですね。

それでまず行動っていうのが人間の絆の結節点としてある。世界の内にある。孤立した人間というのはいない。そういったことから『行動の構造』を分析した。ここで哲学プロパーの問題というのは、いったんは関係ないものとして端折っているんですけど、伝統的に最後の問題っていうのは現代哲学では決まった問題というものがありまして、要するに意識の問題なんですね。最先端の科学者っていうのも意識の質、これクオリアって言っているんですけど、これが謎で、それ以上さかのぼれない、質っていうのはそれ以上さかのぼれないもので、そこで意識は消せないっていうのと、あくまで脳刺激的なネットワークに還元していこうという物理主義的な二つの立場が分裂していて、今の最高の科学者たちの議論でも決着が付かないひじょうにハードな問題ということになっているんですね。

メルロ=ポンティは、そういった不毛な対立とは言わないまでも、まずいったん、我々がつねにすでに生きている自然的な経験へとさかのぼって、そこで意識でも自然でもない、あるいは同時に意識でも自然でもある身体に立ち返って分析しようではないかっていうこういうことを、60年以上も前に言ったので、そういったことがこういった解けない問題とか、クオリア問題に絡んで問題になっているという背景があります。

それからまず具体的な話として、要素還元主義の批判、意味の全体論っていうのがあります。刺激と興奮のモデルを再考する。刺激の要素的な特性を足し合わせた総和以上のものとしての我々にとって「意味」があるということなんですけど、これを主題化しようということです。

*要素還元主義批判⇒<意味>の全体論へ
* 刺激-興奮(反応)モデルの再考=批判:刺激の要素的特性の総和以上のものとしてのわれわれにとっての「意味」
⇒刺激があらわれる「状況の意味」の主題化

これは刺激というものがそもそもあらわれてきている「図」に対する「地」みたいな、そういった状況の意味といったものがある。これを主題にしようということです。

*病的変化⇒そのつどの状況において、みずからの行動の場=状況を<意味>においてとらえるメカニズムが働かなくなるということ

われわれにとってはどういう意味があるのかっていうことが、もはやわからなくなってしまう、そういったことが身体的なメカニズムでは働かなくなってしまう。

⇒この<意味>の関係を、メルロ=ポンティは行動の<構造>と呼ぶ。

最初の主著っていうのが、『行動の構造』と名づけられている。それをさらに展開したものが、彼の主著である『知覚の現象学』っていうものなんですね。

*人間において行動は、「世界をとり扱うある仕方、世界に内属し実存するある仕方」としてつねにすでに構造化されている。

次に行動をどう捉えるかなんですけど、まずいきなり行動っていうようには言わないで、まず人間の運動っていうものをとらえる。最終的に行き着くところは、始原的な習慣としての身体っていうことなんです。

まず、「生きた身体」。

*生きた身体(生きられた身体)

*身体はそれを媒介として「世界へと向かう」ものであり、この「生きた身体」の世界への<志向性>を解明しなければならない。

志向性っていうのは、これはもう本当にフランス哲学だけじゃなくて、ドイツでも英米哲学でも、一番本題となるものなんですね。我々の身体・行動っていうのが、そもそも最初から気づかないうちに、何らかの方向へ向かっているっていうことです。もうすでに方向づけられているっていうことがあります。で、端折りまして、ここの場で幻影肢っていうものに対する議論だけに絞ります。あとは全部カットして、読み上げる感じになるんですけど。

*事例としての<幻影肢>-1
*事故や戦闘などでひどく負傷し、腕の切断手術を施されたひとは、その腕がかつてあった場所に、腕を炸裂させたその砲弾の破片をしばしば感じることがある。このように切断された四肢を身体経験のなかで保持し続ける症例が幻影肢とよばれる。

そこでさらに痛みが出る場合が、幻肢痛っていうんですけど、幻影肢がつねに幻肢痛を伴うってことではないんですけど、しばしば伴うっていうことがある。

この幻影肢は、負傷したときの体験や状況を思いださせるような事態があらわれたとき、それまで幻影肢など体験したこともない患者たちにもあらわれることがある。また腕の幻影肢が時の経過の中でしだいに縮小して、患者自身がその切断の事実を認めること、これは受容ってことなんですけど、で、最後は断端のなかに収斂してしまいもする。つまり、「痛みが無くなってしまう」っていうことですね。

つまり認めるってことは、認めないってことがあるわけですね。自分の腕が切断されてしまったっていうことを受け入れていない場合、痛みが持続してしまうんだけど、それを受容したときに、自分のそういったリアルな幻影肢ってものが消失してしまって、切断面のところに収斂してしまうっていうことがよくある。

この場合、今はない腕や指先に砲弾の存在や、痛みまたは痒みを感じるという事実は、この現象が、ある特殊な記憶か、妄想や幻覚のようなものとして、心理学的な説明を要するようにみえる。この幻影肢は患者に麻酔を施してもなくならない。ところが、幻影肢は、脳に通じている感受的伝道路を切断すれば消失してしまい、そのかぎりで神経生理学的(脳神経学的)な条件に依存していることも否定できない。

つまりこれは最初に言いましたように、大脳皮質を「中枢」とする連絡系っていうもの自体を消してしまえば、これは消えてしまう。

*「幻影肢が一方では生理学的条件に依存し、そのかぎりでは第三者的な因果性の結果でありながら、それでいて他方では、患者の個人的経歴やかれの記憶や情動または意志に所属することができるのはどうしてであるか」
この症例を理解するためには、<心的なもの>(心理学的説明)と<生理的なもの>(物理的因果性による説明)といった二者択一の外へ出なければならない。

つぎにメルロ=ポンティの言葉なんですけど、

⇒「部分的な諸刺激に一つの意味を付与するとともに、それらの諸刺激をわれわれにたいしてなにものかであらしめ、価値あるものたらしめ、あるいは存在せしめている」「状況の意味」の主題化(しなければいけない)

幻影肢の切断されたという欠損の事実を受容できないっていうことが、当然ある。その間痛みは持続するんだけど、それを受容するとともに、そういった幻肢痛が、あるいは幻影肢自体がなくなってしまうということを考えてしまうと、欠損というものはどういうものなのかっていうことについて、メルロ=ポンティは次のように語っている。

*「欠損の拒否とは、一つの世界へのわれわれの内属の裏面でしかない。つまり、われわれをおのれの仕事、おのれの関心事、おのれの状況、おのれのなれ親しんだ地平へと投げ入れている自然的運動に対立するようなものは認めまいとする、暗黙の否認にほかならない。」

ここで言う「否認」っていうのは、精神分析で言う「否認」ということを念頭においているわけなんですけど、単にそういったものではない。そういった心理学的なものではない。

「腕の幻影肢をもつとは、その腕だけに可能ないっさいの行動にいままでどおり開かれてあろうとすることであり、切断以前にもっていた実践的領野をいまもなお保持しようとすることである。」

ようするに、習慣的なものが重要になってくるっていうことで、次に習慣的なレベル、始原的な習慣、あるいは身体図式っていうことを打ち出してきます。

*事例としての<幻影肢>-2:始原的習慣あるいは身体図式
*われわれの身体と外部空間とが協働してかたちづくる「実践的なシステム」は、「身体図式」とよばれる。

身体図式というのは、当時の最先端の心理学の分野でも言われているものがありまして、先ほどのラマチャンドランや脳神経学にも続いているというものだとは思うんですけど、それを借りてきたうえで換骨奪胎して、拡張していって、それがひじょうに有名になっているというものなんです。身体図式はメルロ=ポンティの言い方だと、

⇒「わたしの身体が現実的または可能的な任務にむかってとる姿勢」

ということなんです。ここでは、可能的っていうことの方が非常に重要であって、この可能的っていうのは潜在的とも言えるわけで、習慣っていうのは、あらゆる状況に対して、臨機応変に身構えて反応できる。そういった意味で、あらゆる可能的な刺激に対して反応できるようなシステムのようなものとしてあるということなんですね。

*身体諸器官の諸部分は、「互いに相手のなかに包みこまれて存在する」ものとして、一個の行動の図式(身体図式)を形成している。しかもそれは、たんに現にある状況のなかでとられた位置や姿勢のシステムであるのみならず、他のあらゆる状況のなかでとられる位置や姿勢のなかでも、おなじようなシステムとして無限に変換されうる。このようなシステム、すなわち<身体図式>が身体に住みついたとき、われわれははじめて身体をもつといえる。

つまり、自分自身の身体をもつと言えるってことなんですね。ですから、統合失調症とかそういったものなのでも、自分の身体っていったものが、その統合っていうものが身体図式のレベルで失われているっていうことがよくある。つまり身体の手とか足とか自動運動、自分の意識とか、もはや制御できない。もちろんそれに相当する脳神経学的なメカニズムがあるにしろ、また遺伝的メカニズムっていったもの、そういったものはものすごく複雑なものっていうことで、最先端のジェネティクスとかでもはっきりとはわかっていないわけなんですけど、そういった身体の統合っていうレベルで、我々は身体図式を持っていて、それがなければメルロ=ポンティ的な考え方で言えば、逆に我々の意識というもの自体が成立しない、崩壊しているだろうということなんです。つまり、私っていう意識自体が自分の身体、私は自分の身体を持っているっていうそのこと、あらためて意識化されないんだけど、「考えてみれば当たり前」っていうそういうスタンスですよね。そういうものがなければ、私は自分の意識を持つことすらできないだろうということであって、しかもその意識っていうのが孤立しているんではなく、我々の身体や行動のレベルで、他者とのコミュニケーション、ネットワークの中につねにすでに組み込まれているっていう、そういったことが最初に述べられている。最後にまとめになってしまうんですけど、

*「状況に住みつくという原初的習慣」が、そのつどの経験や行為において、<地平>ないしは<地盤>としていつもすでにともに機能している。われわれの身体は、空間や時間に住み込んでいる。

で、次が非常に重要なんですけど、

われわれにとって、まわりの空間が上下、左右、前後、高低といった意味をもちうるのは、まさにこのような「世界に身を挺した身体」のその身体的実存が、ある「方位づけられた空間」を内に含んでいることによってである。

つまり、われわれの身体というものを座標としているのは間違いないんですよ。で、むしろこれを解体して、デカルトが解析幾何学というものを作り出して、それをニュートンが絶対空間、絶対時間っていうことで、均質化してしまったから近代の物理学っていうものが可能になっているわけですよね。それはアインシュタインによる四次元の時空っていうものに変換されたとしても、ある意味メルロ=ポンティ的なものに近づいているとはいえ、基本的には、個々の人間の誰が観測するかによって、その違いがたとえば天文学的事象の予測の妥当性に関するずれとして生じてくるということはないんです。その意味で、相対性理論というのは普遍的に立証され得る。また、われわれ自身がニュートン力学的な近代科学の客観的空間自体にダイレクトにアクセスするわけではない。それはあくまでも観測装置を介して(産み出された均質空間にアクセスして)いるわけですね。われわれ自身は、私にとっての上下左右高低前後といったもの、これに必ず縛られているわけですよ。ただ、メルロ=ポンティ的言い方をすれば、近代科学的な客観的な空間、等質的な空間っていうものも、その根を探っていくと、こういった自身の身体といったものから取り出される原初的な空間把握ですよね。こういったものに根を持っているといった言い方をするといったこともあるわけです。それはまあいろいろあって、最終的に決着を付けられるものではないわけですけど。とにかく、われわれにとっての世界のそういった空間っていうのは、「世界に身を挺した身体」とその身体的な実存っていうものが、そもそもそこからさかのぼれない方位付けられた空間っていうものを内に含んでいることによるものである。つまり、われわれはある意味で自分の身体から外に出られない、っていうことで伝統的な哲学とか、先ほどのクオリアといった問題からいうと、結局のところ他人の見え方といったことは、われわれは決して知ることができないから、われわれは孤独ではないのかというようなことがあったわけなんだけど、むしろそうではなくて、われわれがわれわれに自閉していない存在であって、他者のこととか、他の世界とか他の文化について開かれていくっていうことをしている。まあ、そういったことなんですね。


われわれがリハビリとかそういったところを主題化する上で、先ほどの幻影肢という現象というのは、最終的にどのようにこういったメルロ=ポンティの身体論といったものからみて言えるのかということを最後にまとめると次のようになります。

幻影肢の現象も、始原的習慣としてはたらくわれわれの身体のうえに重ね描きされた、対象あるいは物としての身体のあり方が、患者においては部分的に欠損したので、そこに<地盤>として持続的(潜在的)に機能していた「習慣としての身体」が露出してしまう現象として解釈できる。このとき患者は事実上の身体、つまり腕が切断され消失したにもかかわらず、その始原的習慣にしたがって切断以前の実践的領野を保持しようとしている。したがって、患者がいずれ切断以後の状況(世界)に身を慣らせ(住み込み)、あらたに更新された始原的習慣としての身体図式を獲得するようになれば、幻影肢の現象は起こらなくなる。

で、実際に起こらなくなるということなんですね。

 今言ったようなことというのは、これ以降問題になってくるっていうことで、実際20年ほど前の文章に紹介されていますが、東京都立神経病院の脳神経外科の部長の人が、アメリカのナシォールドという脳外科医が始めた幻影肢の治療手術を試みているんですけど、脊髄後角(脊髄後根進入部:DREZ)に対する働きかけ(破壊)っていうことで、これもいまだ局在論的な因果性の枠組みのなかにあるという限界があり、単に末梢から脊髄や大脳皮質へと遡るだけではなく、さらに全体的なネットワーク機構の総合的な、まさにメルロ=ポンティが目指した地平における理解にまでいかなければどうしようもないということをむしろ示しているとも言え、その意味で、本格的なメカニズムの解明と治療はこれからではないかと思います。

質疑応答
O氏:幻影肢の部分なんですけど、社会的批判、逸脱した行為?ということになるんですけども、この点についてはどのように解釈すればよろしいでしょうか。

永澤:社会的批判ですか。

O氏:社会的批判です。つまり切断された腕には痛みが伴うはずがないという批判に対してどのように考えればよいか。実際メルロ=ポンティはフェミニズムの問題でやられていますよね。つまり身体といった場合、男性は男性らしく、女性は女性らしくなど。怪我をした場合、身体に問題があるんであれば、それらしくしろという一種の社会的批判があると思うのですが、それに関してどのようにお考えでしょうか。

永澤:メルロ=ポンティの場合は、社会的批判というのは単なる文化的な理論にも回収しないし、また心理学的な抑圧とか否認といったそういったもので、そういった精神分析的な流れの中でしかとらえられないといった立場にも、また社会構築主義的な立場だけに還元することもしないんですね。そうしてしまうと、むしろ理系の人っていうか、じゃあ、それは身体的にはどういうものなんだっていうように、手が届かなくなってしまうものになってしまうわけですね。ですから社会的規範がわれわれにとってプレッシャーになって、四肢を切断してしまい非常に自分の万能性の喪失というか不能性っていうのが重圧になって、それを認めたがらない。だからそういった精神分析的な否認がそういった痛みっていうのを逆に引き起こしているし、そういった社会的規範的な圧力を解除してあげれば、それを受容することによって痛みが消失するっていうような言い方もできるし、その場合、一見身体的な物理的なものは関係なくて、要するにそれは文化理論的な問題なんだとか、心理学的精神分析的な精神療法の問題なんだとかいうようにもなってしまいかねない。もしそうすると、ここにいらっしゃるみなさんは、じゃあ幻肢痛ってそういうものなんだっていう、心理的なものであって、われわれとは関係ないんだって誤解をされかねないんですけど、むしろメルロ=ポンティっていうのは、両方のアプローチっていうものをいかに統合するかっていう、そっちのほうに重きをおいているわけなんですよ。なので、まあ、実際心的なものと身体的なものをまず両方立てちゃって、それがどう関わるかっていうことをやってしまうと、最先端の科学者がいろいろやっていますけども、解けないんですよ。そういうやりかたですと。そういうやりかたでは絶対に。だから別のやり方っていうのは、まさに先ほどのO先生のように両方のまなざしがある方だからそういう質問がでると思うんですけど、むしろ今述べているような問題設定を先取りして言われていることになると思うんですけど、そこが重要なんですよ。だから、そのある意味そういった先鋭的なフェミニズムの文化理論的なあるいは社会構築的な理論の陣営から言えば、こういったメルロ=ポンティの言い方はむしろ不当に古い、もう過去のものみたいにとらえられることもあったわけです。ただいまのような考え方でいうと、まさに文化的な心理学的なものでも駄目だし、かといって単なる因果的な物理的なものだけでも考えにくいということなんですよね。

O氏:関連した感じなんですけども、メルロ=ポンティ自体現象学的なものの捉え方をしているときに、フッサールとの違いというのはどんなところなんですか。

永澤:フッサールとの違いは哲学的にいえば、非常にシンプルに言えるんですけど、フッサールというのは結局のところデカルト主義者で、『デカルト的省察』っていう本を晩年に書いているんですけど、思うに、結局全ては意識の操作だっていう考えなんですよ。だから最終的に意識こそが私たちが最終的に確保できる最後の領域で、その外側はないっていう。だからけっきょく彼にあっては、われわれの意識と他者の意識がどこでつながるかを、ものすごいごちゃごちゃしたいろいろな形で身体的な総合とか、時間的な総合とかでやっていこうとしているんですけど、フッサールにとっての他者っていうのは、結局ただの構成物なんですよ。他の意識を私がいかに構成するかっていう問題になっちゃって、結局私が他者を構成して、その外に出られないという、感じになっちゃうんですよね。で、実を言うと、だからフッサールは駄目っていうのではなくて、身体的なあるいは物理的なものに手がかりをもつような身体的領野も絶対に残るし、われわれはなぜ赤を赤と意識において捉えられるのか、この赤の意識は何なんだっていう、このクオリアっていう問題も残るんですけど、今の最先端の哲学とかその他の領域だと、よきにつけ悪しきにつけどっちつかずみたいな状態になっちゃうんですね。一方で我々は意識から出られないのも事実なんだけど、その意識から逃れること(もの)もあるということですよ。端的に言えば、例えば数学の無限の話なんですけど、無限っていうものは、実のところは最先端の哲学でも扱えないんですよ。理論物理学でも無限というものが出た時点で、あるいは特異点というものが出た時点で発散してしまって、もうがらくた理論というか、それで物理理論というものは言えなくなってしまうんですよ。だからブラックホール、特異点、「繰り込み」とか朝永振一郎とかが必死にやっているわけじゃないですか。だから結局無限って言うものは本来、物理学でも扱えないのは当然で、意識の構成できないものとして残るっていうもの。それで、メルロ=ポンティは世界って言っているわけなんですよ。今の最先端の、全て意識に回収できるっていうことであっても、結局全ては私の意識なんだけれども、そこから絶対逃れ出てしまうことがあるということの二つを、どっちかじゃなくて両方唱えた上で、あとはちまちま地道にやっていこうというそんな感じなんですよ。だからそれは一種の規範みたいな感じになっていて、われわれが実践的にケアをする場合でも、頭の片隅に残しておこうというのはそういった規範というか指針として残していくという、そういう感じになるんじゃないかと思うんですよ。で、もうちょっというとですね、実際の無限っていうのは、取り扱う仕方として、最後まで残っちゃっている考え方として直観主義っていうのがあるんですよ。結局実無限っていうか無限自体は構成できないから、その次その次その次っていう精神の活動=構成操作、その構成操作の直観という根源的な制約を受け入れた上で最後はやっていくしかないんじゃないかっていう、帰納法の基礎づけとか。結局そういう考え方も一時は馬鹿にされていたんですけど、ブラウワーっていう直観主義を最初に唱えた人は、実際変人って言うか、とんでもないっていうふうに言われていたんですけど、その考え方は、ある意味では有力なものとして、今も残っています。結局その無限を何とかどうこうしていこうといっても、その果て、またその果てとしてしかとらえられないんじゃないかっていう。だから結局そこを極端に言うと、all or nothingって言えなくなっちゃうんじゃないかっていう考え方にもつながっているんですよね。つまり「排中律」っていう「これかこれじゃないか」っていうのはどうしてわかるんだっていうことなんですよ。つまりAかnon Aかのnon Aっていうのは無限領域だから、そこを神のように捉えてないじゃないか、そこをなんでnon Aって言えるのかっていう意味で、ブラウワーっていうのは「排中律」を否定してしまっているんですよ。っていうことですごい反響をもった人なんです。一見余計なことなんですけど、要はそういったことに今答えはないっていうことです。当たり前といえば当たり前のことなんですけど。



*以下、発表後のfree discussion(筆者発言分の一部):
1/12/2010,15:00-

まあ、そうですね。まあ、身体的にも精神的にも両方トータルで、分離しないで、二者択一じゃないっていうあのメルロ=ポンティにつながってくる。みなさんそういう見方を共有した方がいいと思うんですけど、立ち上がってこうやって返ってくるっていう全体のトータルの所作のなかに、モチベーションとかやる気とか身体的状態とか、全部入っているじゃないですか。

だからそれをたとえばビデオにとったプロセスを時間的に見て、こういう働きかけに対してどのくらいのやる気がみられるかっていうのは現象学的記述もできるし、ある程度心理的なものも含めて、あるいはリハビリ的なものも含めて、これだけやったときに、だいたいこれくらいで立ち上がる所作とか、これくらいのスピードとかっていう定量化ってことも不可能ではないと思うんですよ。

質的な働きかけに対してある程度ここまでもってくれるという、そういうリハビリも含めて。そういった数値も含めて、ある一定の目安としての定量化っていうことも可能だと思うし、要はその数字を、データをどういう枠組みでとらえるかっていうことに新しさがあるんですよね。

だから、要するにその陥りがちなのは、時間の短縮だけとか、一面だけとってみても、まあしょうがないわけで。そうしたらやる気もないのにやれっていって、こなせばいんでしょっていっていうのもある。

だから単に時間だけをとっても駄目だし、それとその人の表情とか動作とか見方とか、そういったものを含めていく。

(略)

すごくよく言われるのは、我々は信仰っていうものがあるから祈るっていうよりも、メルロ=ポンティ的に言えば(あるいはパスカル的に言えば)、祈るっていう動作を習慣づけられたときに信仰があると言える。逆なんですね。悲しいから涙を流すっていうよりも、悲しいふるまいとか涙が流れるっていうことを振り返ったときに悲しみっていうのがあるみたいな、意識から身体的な所作に遡るっていうっていうのはそういうことなんですね。

あとは、我々は患者さんとかクライアントをどういうふうに「記述するか」っていうことが決定的に突き詰められている。重要なのは、カルテを書くにしても記録するにしても、そうなんですよ。

つまり哲学でよく言われるのは、こういう右手を挙げる動作を、写真、ビデオにとって、それをわれわれがどう記述するか何ですよ。それはその人の情報がなければ記述しようがない。なぜかっていうと、「Aっていう人が手を挙げた」っていう記述が正しいかっていうとそうでもないんですよ。

この人は意識しないうちに手が挙がってたってこともあるんです。もしくは遠隔操作されているかもしれないし。つまりその人との関わりを抜きに、映像だけを見て我々がどう記述するかっていうのは、不可能なんですよ。だからそういう相互作用の中で、これをわれわれは捉えていくかっていう。そういう問題なんですよね。

「手を挙げる」ってことから「手が挙がる」ってことを差し引いたら一体何が残るのかっていうのが、昔から言われている問題があって。結局、意図 intention とか、必ずしも意識的なものではない。そこを考えるかっていうことが重要なんですよ。やる気とか意図とか。

(略)

人を診るっていうのは、心理的なものを診ることなのねって陥りやすい罠をメルロ=ポンティは批判したってことなんですよ。つまり、そうじゃなくて、心理的なものにも偏っていない、生理的なものにも偏っていない、その接点っていうのは習慣だっていうのがメルロ=ポンティの習慣。だからあの、歯磨きの習慣が、なぜできていないのかとか、運動の習慣とか、それは24時間の、もしくはその人の何十年もの習慣じゃないですか。

だから人を診るっていのは、こういうことを言えば一般の人もわかってくれると思うんですよ。心理学とか知らないよっていうのが普通じゃないですか。ましてや、学生なんかもそうだし。で、そういうところはOT・PTなんかは抜け落ちている可能性があるじゃないですか。

で、なぜかっていうと、バイステックの原則っていうのがあって、一年生科目としてあるわけじゃないですか。その中に非審判的態度の法則っていうのがあって、つまり、心理的罠に陥らないっていうのは、その人の性格とか、そういったものには言及しないっていうことなんですよ。

君は怠け者の癖があるって言っても全く効果ないわけじゃないですか。身体的習慣とか生活的習慣に定位しなさいっていうことなんですよ。バイステックの非審判的態度っていうのは。生理的なものじゃないなら心理学的っていう偏見っていうものを打破していくっていうのは、その人の行動的な習慣ってものにアプローチする。

(略)

だからあの、たとえば人を診るの人が心だって言っちゃうと、その人の思いこみとか偏見とかに落とし込められちゃう危険があるので、それをなくすっていうのがある。そういうものの接点っていうのが生活習慣っていう話をしましたけど、もう少し具体的に言うと、言葉のやりとりと、一つの形式っていうかスタイルに注目するっていうのがあって、もちろん現場において自分が自分の目で見なくちゃなんないし、それを記録するんですけど、一応全体を撮ってみますよね。

そこで特定の職種の固有性とか、野球とサッカーの違いとか、共通点と違いっていうのは、そこでの言葉のやりとり、コミュニケーションのやりとりとかスタイルとかが、それぞれの職種においてクライエントとの間でどう違うんだ、そういうことと比べるってことがあるんですよ。

これが要するになにかっていうと、言葉の意味っていうのがもともとあるんじゃなくて、どういうふうにその人がある一定の言葉を使うかっていう、使い方が意味そのものなんだっていう、これが有名なヴィトゲンシュタインっていう人がいまして、今世紀の初めにパラダイムを転換しちゃったんですよ。

で、そこから言語ゲームっていう考え方が出てきているんですけど、ゲームっていうのはチェスにしても将棋にしても、ボードゲームにしても共通性がある。野球にしてもサッカーにしてもチームとしてのスポーツという共通性がある。共通性があるんだけどどこがちがうかっていう言語ゲームっていうそのやりとりが、違っているっていう。

本当にその言語ゲームっていうものをみた場合に、クライエントのとのやりとり、やり方とがどうかっていうのを実際に観察してみないと、実際のことはわからないし、あらかじめ何も言えないんですよ。それは。そこで今言ったことがフィールドワークの見方なんですよ。



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